アーサーとアルフレッドは二人で暮らしている兄弟。アーサーが2人分を稼いでいました。フランシスはアーサーのバイト先の近くに美容院を持っていて、いつの間にか知り合ったという設定。 アルフレッドはその小さな美容室の前へと、歩を進めた。陽のよくあたる室内、そのガラスの向こうに、笑顔で客と話しながら、お客の髪を切っている男がいる。元気そうだ。アルフレッドはちょっとだけ笑って、その後あたりを見回した。その建物の隣に、立派な庭のある家があるのを見つける。家の前の駐車スペースには今、車はないが、夜になると、そこに帰宅した住居人の車が停まるのだろう。住居人――アルフレッドの兄だ。隣に住み始めたのだと、知ったのは二年ほど前だった。 アルフレッドの前に、フランシスという男が登場したのは、随分と昔のことだった。アルフレッドがまだ、アーサーと共に住んでいたころ、まだ、子供だったころだ。 最初に彼が目の前にあらわれたたときのあの感情を、うまく言葉に言い表すことはできない。いつでもひとりで帰ってきて、「まだ寝てなかったのか、アルフレッド」とちょっと怒って、それでも少しほっとしたように笑っていたアーサーが、友人、というか腐れ縁なのだと連れてきたのが、フランシスだった。彼――髪が少し長くて、青い目をしていた――を初めて見たそのとき、とても不思議な気持ちになったのを覚えている。言葉にできない感情だった。今思うと、あの気持ちは、離婚した母親が恋人を連れてきたときの子供の感情に似ていたような気もする。よくは覚えていないし、そんな経験はないから、わからないけれど。 それからフランシスはよく、アーサーとアルフレッドの家に来るようになったのだった。彼は料理をしたり、あるいは馬鹿な話をしたりして、たまに泊まって、帰っていった(ちなみにアーサーは宿泊代をがっぽり貰っていたらしい)。フランシスは新たな風を、アーサーとアルフレッドの家に吹き込んだ。 美容師であった(今もそうだが)フランシスは料理のうまい男だった。アーサーは掃除も洗濯も金銭の管理も完璧にこなしたが、料理だけはてんでだめだった。フランシスが現れてからは、アルフレッドはしばしば美味しいものを食べられるようになった。 あるいは彼は、服装やなにやらのセンスがとてもよかった。アルフレッドの卒業式の服を、彼は見立ててくれた。彼が選んだのはシンプルなくせにセンスがある服だった。友人の母親が感心していたのを、アルフレッドはよく覚えている。鼻が高かった。 また、彼は話も上手い男だった。彼はアルフレッドに色々な話をしてくれた。アーサーが教えてくれなかったこと(たいてい、ちょっと大声ではいえないこと)を、教えてくれた。アーサーはそのことを怒っていた。フランシスは怒っているアーサーを見て、「お前だって結構アレじゃん」と言って笑っていた。そうなんだ。アルフレッドが笑うと、アーサーは真っ赤になって否定した。初めて見る顔だった。フランシスは何度も、数え切れないくらいに多く、見てきた顔だったのだろう。顔真っ赤〜と茶化して笑っていた。 アルフレッドは当然、フランシスを慕っていた。けれど。 彼はいつも、香水のいいにおいを漂わせていた。だからといって、女っぽいとかいうわけでもなく、かえってそれが男らしいような気がする、そういう意味では不思議な男だった。アルフレッドはこの匂いが嫌いでなかった。しかし、フランシスが家に来ない日でも、アーサーがフランシスの匂いと共に帰って来るときだけは、酷く嫌味っぽい匂いに感じられたのだった。その理由は良く知らない。面倒なので、あまり考えない事にしていた。 一度、フランシスとふたりきりになったときに、彼とアーサーとが知り合った経緯を知った。それの殆どをアルフレッドは忘れてしまった。ただ、随分昔からつきあいがあったらしい、ということは憶えている。それから、フランシスが言ったあの一言も。 ――だって、あいつ、一杯一杯って感じの顔だったんだもん どういう質問をしたのかは忘れてしまったけれど、この言葉は酷く強く、アルフレッドの胸を突いた。アルフレッドの前のアーサーは、いつでも、しゃんと背筋を伸ばし、余裕があって、とても大きな、そういう存在だったから。・・・どういう風に?そう、訊ねた。不思議なくらい、心臓が五月蝿かった。んー、上手く言えないけど、なんていうかさ、ほんと、無理してるって感じだった。フランシスは笑っていた。アルフレッドはうまく笑えなかった。無理させているのは誰なのか、考えるまでもなかった。 フランシスが来るようになってから、アルフレッドはアーサーのことを知った。ずっと一緒に住んでいたのに、彼のことを知ったのは、フランシスが現れてからだった。アーサーの口癖が「バカ」であること、怒るとすぐに手がでること、嘲るように笑ったり、恥ずかしがって頬を赤らめたりするのだということ。笑うと――心から笑うと、とても幼い顔なのだということ、眠った顔は無邪気なこと。それはうれしいことであったけれど、同時にかなしいことだった。アルフレッドの知っていたアーサーは、本当のアーサーではなかったのだ。フランシスはずっと前から本当のアーサーを知っていたのだ。そのことに気づいてしまってから、全てが変わりだした。 アルフレッドは、やがて環境に耐えられなくなった。フランシスだけが知っている、アーサーを見るのがつらくなった。彼らがじゃれあったり、チェスに興じたり、サッカーを見て盛り上がるのを見るのがつらかった。酒盛りをしたふたりが、並んでぐったりと眠っているのを翌朝に見るのが嫌だった。アルフレッドの知らないアーサーを教えられるのが、苦痛だった。ふたりが何時ものような小競り合いをしていたある晩、アルフレッドは決めた。家を出ようと。そして、フランシスを越える、美容師になろう、と。 最初にフランシスにそのことを相談した。フランシスは、「それはいいかもな」と言った。美容師も、大変だけど結構いいもんだぜ。笑った。アーサーに相談した。アーサーは怒った。酷く怒った。悲しそうに怒った。フランシスはそれでも、アルフレッドを応援してくれた。複雑な気分だった。そしてある朝、アルフレッドは家を出た。アーサーは泣いていた。フランシスが駅まで送ってくれた。その後のアーサーのことは、よく知らない。たまに、フランシスから手紙があった。元気にしてる。お前のワガママなお兄ちゃんもな。だいたい、ごく短いものだった。フランシスは、結局アーサーの側にいるのだった。これでよかったのか。思い返すことがよくあった。 そして、アルフレッドは立派な美容師になった。ちいさな街で小さな店を開くフランシスなどゆうに越え、都会で、テレビにも出られるほどに有名な、美容師に。だから、今日、そのことを報告しようと、久しぶりにアーサーの顔でも見てやろうと、帰ってきたのだ。 NEXT |