演奏が始まる直前の、あの一連の動きが菊は好きだ。ある者は笑顔で、ある者は仏頂面で、かつかつとした足音と共にステージ(といえるものでもないが)へとあらわれる。今菊が見ているカルテットなら、最初に笑顔の少年、続いて仏頂面、笑顔、仏頂面、という順で。そうして、観客に向ってぺこりとお辞儀をする(この4人の場合、これがぴったりと合うことはほぼない。そのことに、セカンドの彼は毎回イライラしているようだけれど、他三人が気にしていないものだからまったく相手にされていない)。お辞儀に対して、拍手が起こる。彼らは椅子に腰掛ける。これもたいていばらばらだ。それから、隣の奏者との間隔だとか、譜面台の位置だとか、高さだとかを調整する。こういうことにあまり執着しないらしいビオラの彼が、一番にこれを終える。ちなみに、彼は残った時間を、客席にさり気なく視線を走らせることに使う。まあつまり、観客の中のめぼしい女性をこの間にチェックしているわけだ。次にファーストの彼、セカンドの彼、と続く。チェロの彼だけは、これは仕方ないことだけれど、エンドピンがずれないようにいつも慎重で、時間をかける。このことを、いつも彼はビオラの彼にからかわれている。 無事にそれが済めば、次は調弦だ。ファーストの彼が、Aの音を鳴らす。このときですら、彼の音は楽しそうに生き生きとしているのだからすごい。それに、他三人があわせ、それからそれぞれに調弦をする。E、A、D、G、Cの音が色々な高さで鳴る。ひとり、ひとり、終えていって、最後に細く鳴っていた音が消える。そうして、沈黙。 おもむろに、4人が殆ど同じタイミングで楽器を構えなおす。ファーストバイオリンの彼が、にこにこと笑んで三人の準備ができたかを確かめる。このとき、セカンドの彼はまるで睨んでいるかような厳しい面持ちで、その隣のビオラの彼は、楽しむようにその青い目を細め、その隣のチェロの彼は童顔に真剣な表情をのせている。ファーストの彼が嬉しそうにひとつ、頷く――そして、曲が始まる。 ♪♪♪♪♪ 「今日もありがとうございました」 「いやいや良いって良いってー」 丁寧にお辞儀した菊に向って、ひらひらと手を振ったのはフランシスだ。彼は菊の出した日本酒にほろ酔いの体、といった風で、とても機嫌がよさそうだった。レストランでの演奏の代償として、4人には夕食をご馳走するのが常である。菊の料理は、4人には概ね好評だ(たまに言葉にできないような表情をされることがあるが)。 「いつも上手い飯ありがとな」 フランシスは礼を言いながら、その視線を右後ろにいた彼に流した。その何気ない仕草の醸す色気に、さすが伊達男です、と菊は内心で賛辞を送る。ルートヴィッヒと話していたアーサーがそれに気づいて、ぎろりとフランシスを睨みつけた。ものすごい形相だ。と、彼は続いて菊の方を向き、急に優しげな表情になって、 「・・・今日こいつ楽譜が上手くめくれなくてあたふたしてたんだ。こんなボケがいて悪いな、よく言っておくから」 「ちょっお前気づいてたのかよ!」 「俺も気づいていたぞ」 「俺もー!」 「客物色する前に楽譜めくるタイミング確認した方がいいんじゃねぇの?」 「うるさいたまたまだよたまたま!うちのポトフ1.5人前食ったお前に言われたくねぇ!」 「ポトフ関係ねぇし!作りすぎたから食えっつったのはてめぇだろ!?」 「ふたりともやめろ!店内だぞ!」 荒くなる声に、ルートヴィッヒが怒鳴る。ものすごい威圧感だ。フェリシアーノはその隣で、店から出ようとしていた女性のお客に声をかけている。あ、君すごくかわいいねー!名前なんていうの?どのあたりに住んでるの?とかなんとか言いながらにこにこ笑っている。ルートヴィッヒはそれにも気づいて、フェリシアーノを無理矢理、急なナンパに真っ赤になった彼女から引き離した。その間にもアーサーとフランシスの喧嘩(と書くがじゃれあいと読むべきだ)が再開する。ていうかお前はやく洗濯物もってけよいつまで俺んちにおいとくつもりだよ。だっていつも取りに帰るの面倒なんだもん。隣じゃねぇかよ。隣だから面倒なんだろ。云々。――相変わらず半同居状態なのだろうか。 「・・・若いですねー」 賑やかな4人の様子に菊はぽつりとつぶやいた。けれど騒ぎに夢中な若い4人にはどうやら聞こえなかったらしい。まったく羨ましいことです、と息をついてから、彼は和服の懐から小さな帳面を取り出した。そうしてさらさらと何かを書き付けてゆく――もちろん何を書いているか、何の参考にするかは、ばれないように。 元気に なんかちょっと弾いてもらった。バイオリンふたりと中低音ふたりの分離についてはあきらめました(笑) |