注:国民(一般人)視点 あれは私がまだ7つか8つの頃だったと思う。私がまだ、パリに住んでいたころ。大戦が終わってからそうたたないころだったから、パリは荒廃しきっていて、でも輝かしい未来への期待から、人々は皆、生気に漲っていた。そんなころだった、私が初めて恋をしたのは。 私はその日、母親が買い物を終わらせるのを、公園のベンチに座って待っていた。よく晴れたうつくしい日だった。パリの空はどこまでも青くて、どこに行っても、人々はご機嫌だった。公園には、たくさんの親子連れや恋人たちがいた。そんな中、内気だった私は知らない子供たちが遊んでいる姿や、恋人たちが抱擁を交わすのを、ベンチに座りながら遠巻きに見ていた。 しばらくしてそのベンチに、誰かが後からやってきて腰掛けた。――そう、その人こそが、私の初恋の人だった。 彼がどういった姿かたちだったか、私は今でもよく覚えている。髪は金色で波打っていて、ちょっとだけ長い。ブルーの悪戯っぽい瞳、顎には無精髭。VネックのシンプルなTシャツを着ていた。戦争に行っていたらしく、身体のあちこちには傷があった。なんだか素敵な人がきた。私はそう思って内心どきどきしながら、けれど平常心を装って、側で遊んでいる子供たちを見詰めていた。 彼は誰かを待っているようだった。しきりに時計を気にしていた。そうしながら、しばらく、どこからか出した本を読んでいた。けれどその本はよほど退屈だったらしく、少し経ってから、彼は私に話しかけてきた。 「ちいさなマドモワゼル、君も誰かを待ってるの?」 低くて心地好い声だった。うん、ママを待っているの。ちょっと緊張しながら、そう、私は答えた。そうか、俺も人を待っているんだ、と彼は言って笑った。瞬間、どくりと、今まで感じたことのない重苦しさが、左胸に湧き上がった。その感覚に、私は戸惑った。 彼は、私にいろいろな事を聞いてくれて、あるいは話をしてくれた。話がうまい人だったから、私はすぐ彼の話に夢中になった。彼は私に、どんな家族がいるのかを聞いた。私は思いつくままに、家族のことを話した。母親の説教がものすごく長いこととか、リヨンにいる祖母が焼くタルト・タタンのこととか。父親は戦争に行って帰ってこなかった、といったら、彼はかなしそうな顔をして、ごめん、といった。どうしてあなたがあやまるの。私が聞くと、彼は、 「君の大切なお父さんを守れなかったから」 かなしそうに言った。私は彼に悲しい顔をしてほしくなかった。誰だって、好きな人が悲しそうにしているのは見たくないだろう。だから私は、そのころ家に来たばかりだった猫の話をすることにした。白くて綺麗な毛並みに、まん丸の目、甘えた仕草のかわいい仔。カモミールと名付けたその猫の話をすると、きれいな猫だろうね、と彼は笑ってくれた。猫の話をすると、彼はすこし楽しそうになったから、私は安心した。 俺も気にかけてる猫がいるんだ、と彼は言った。気にかけてるってことは、つまり飼ってはいないってこと?私が訪ねると、あの猫は誰の猫でもないからな、と彼は笑った。その猫について、彼は話してくれた。 すごく面倒くさい猫なんだ。見た目は悪くはないんだけどな。ちょっとやせてるけど、毛並みも良いし、みどり色のひとみはすごくきれいだし。けど、性格が本当悪くてね。ちょっと信じられないくらいに無愛想なんだよ。たまに様子を見に行ってやっても、嬉しいくせにつんとすましてるし、ちょっと気に障ることをすると、すぐシャーって尻尾逆立てるわ、引っ掻くわ。本当最悪な奴だよ。 彼はそんなことを話した。どうしてそんな嫌な猫のことを彼は気にかけるのか、私には皆目検討がつかなかった。なぜその猫のことを放っておかないの、と私は尋ねた。彼は、一瞬黙ってから、 「なんでだろうな、俺にもわかんない。でも、あいつのことは放っておけないんだ」 そういって、笑った。困ったような、けれど優しいその表情を見て、ああ、この人は、その猫のことがとても大切なんだな、と、幼いながらも私は思ったのだった。そして、すこしだけ、かなしくなった。 その後、彼は映画のことや、本のこと、甘くて美味しいお菓子のこと、たくさんの素敵な話をしてくれた。話をすればするほど、私は彼に夢中になった。ずっと、話していたいと思った。けれど、たいていの楽しい時間がそうであるように、その時間はあっという間に過ぎていってしまった。動物園のことを話してくれていた彼がふと、私たちの座るベンチに近づいてくる人を見て、立ち上がった。 「悪い、約束してた奴がきたから、もういくな」 彼がいってしまう。私はとてもかなしかった。けれど、待って、ということはできなかった。私たちのもとへと歩み寄ってきていたその人を、私は見てしまったから。金髪でみどり色のひとみ、無愛想な表情。彼があんな表情をしながら話してくれたあの猫に、その男性はなんとなく重なったのだ。 「楽しい時間をありがとう、ちいさなマドモワゼル。カモミールによろしく」 彼は微笑とウィンクを残して、みどりの瞳の彼と連れ立って公園から去っていった。「お前、あんな子供に手だしたんじゃないだろうな」「まさか、ちょっとお話してただけだ」「どうだか」そんな会話が、聞こえてきた。 さようなら、モナムール。あなたの猫さんとお幸せに。私はその背中を見送りながら、そう思ったのを覚えている。その後すぐ、私の母はイギリス人と再婚して、私はシェフィールドに引っ越した。だから、その後彼には一回もめぐり合えていない。文字通り甘酸っぱい、初恋の思い出だ。 ******* 仏英のゲイカップルぶりに自分で大爆笑。 この人がイギリスでやっぱりイギリス人と結婚して、その娘の初恋がアーサー。そのまた娘がニューヨークに旅行に行って、そこでアルフレッドにどきってなる、みたいなポーの一族的なことを考えましたが、根性がついてきませんでした。ありがちですみません。 |