夕暮れ時の美術室には、真っ赤に熟れた太陽を水で延ばしたような光が、溢れるように満ちていた。画材の匂いが濃く漂う教室の隅に、黒々と長い影がひとつ。フランシスだ。彼は他のものに目をくれることもなく、四角のカンバスと丸いパレットの間だけに、真剣な視線を往復させていた。


「・・・まだやってたのか」


アーサーが発した、呼びかけとも独り言ともつかない声は、真っ赤な教室の中にぽつりと浮かび、漂って、やがて沈んでいく。しかしその声に対して彼は黄色をパレットから筆先に取っただけだった。いつも通り、何も聞こえていないらしい彼の反応に、アーサーはひとつ息をついてから、美術室に入った。


アーサーの存在に気づいているのか、気づいていないのか、それすら定かでないフランシスの、そのすぐ後ろを通って、窓際に向う。側を通るときに絵を見てやろうと思ったが、暗くて良く見えなかったので、断念した。窓は開け放されていた。四角の窓枠に切り取られた空は、鮮やかな絵の具を何色も何色も薄く重ねたように、複雑な色をしている。六月の涼しい風がアーサーに向って吹きつけ、適当に切りそろえられた髪と同時にカーテンが揺れた。気持ちの良い風に、鞄から持ち帰る書類を出して仕事でもしようかと思っていたアーサーの、気が変わった。椅子を引っ張って、窓際に腰掛ける。そうしてただ、空を眺めることにした。フランシスも、さすがに日が暮れるまでには終わらせるだろう。そう考えながら、赤色に浮かぶ雲を見る。フランシスが筆を使う音と、ときたまの風の音以外、教室には何も、音がなかった。そのかわりに、教室には色が満ちていた。


空のカンバスの配色は、ずっと同じであるように見えてめまぐるしくうつり変わっていた。鮮やかだった紅がすこしずつその色を失って、代わりに群青が空を支配しようとする。漂う細長い雲は、赤紫をしている。窓から入る風の温度が、だんだんに下がってゆくのを感じるーーその頃になって、やっとフランシスが画材を片付け始めたらしい音がしはじめた。かたかたという音を聴きながら、アーサーは尚も窓の外のカンバスを眺める。


やがて全てを片し終えたらしいフランシスが、後ろから近づいてくる気配がした。と、思う間もなく、くしゃりと髪を撫でられた。


「悪いな。…まぁどうせお前は飯が目当てなんだろうけど」


先ほどとは別人なんじゃないか、というほどの軽い声。画家からすっかりいつもの彼に戻ったフランシスに対し、遅すぎる、と、視線を動かしもせずに応えておく。そんな応対にも、本当はアーサーにとって、待つことはそこまでは苦でないのだと知っているフランシスは軽く笑っただけだった。





オレンジ色の光が細く、柔らかにさす美術室から、揃って退出する。連れ立って歩くフランシスからは、香水の匂いよりも絵の具の匂いがした。その手の甲をみやれば、水で落ちなかった黄色の絵の具が、薄いながらもその存在を強烈に主張している。その所為で、見慣れたはずのその手が、別人のもののように見えた。


誰もいない廊下にも、窓からの色鮮やかな光があふれていた。青、紫、赤、黄、オレンジ。きゅ、きゅ、という足音が二人分。隣りを歩くフランシスが、いつの間にやら占有していた美術室の鍵をポケットにしまい、かわりに自転車の鍵を取り出しながら口を開く。


「お前、次の絵のモデルやんない?」


フランシスは前を向いたままだった。アーサーも彼から視線をはずし、前を向いたまま聞き返す。


「報酬は?」
「期間中のランチ提供」
「……」
「デザートつき」
「……」
「お飲み物はお好みで紅茶かコーヒーを選べます」
「ハーブティもいれろ」
「はいはい」


注文の多いモデルだな。そういって、彼が笑った。どうして俺の絵なんか描きたいんだ、とアーサーは訊ねようかとおもったが、どうせからかわれるだけなので止めておいた。モデルをするのはこれで何回目になるだろうか。その度に見るフランシスのブルーの目は、いつもの彼とはまるで違っているから、いい加減見慣れてはいるものの、なんだか調子が狂うのだった。画家は描いている間モデルに恋をするとかなんとか聞いたことがある。それだけはさすがにありえないだろうけれど、とにかくやけに熱心に見詰めてくる瞳が少しだけ、アーサーは苦手だった。まあ、ランチを断る理由になるほどではないのだが。そんなことを思い出しながら彼を見ていると、何見てんだ?お兄さんが美しすぎたのか?とか馬鹿なことを言ってきた。死ね、とだけ返して、正面を見据える。その後ぽつぽつと話をしながら昇降口を出た。


自転車置き場に付く頃には、空はすっかり群青に支配されていた。辛うじて残る光はか細く、今に消えてしまいそうだ。自転車に跨がったフランシスの、後ろに立つようにして乗る。二人分の体重を受けた自転車が、苦しそうに沈んだ。これって警察に見つかったら面倒だよな。フランシスが今更なことを呟いたのに対して、ルードヴィッヒにばれる方が面倒くせぇだろ、と言うと、彼は確かに、と笑う。


青の中微かにか細いオレンジの光が残る通学路を、フランシスの家へと向かって滑走して行った。気持ち良いな。思いながら、バランスを崩さないようフランシスの肩を掴み直した。シャツ越しの体温が伝わってくる。眼下に柔らかそうな金髪が揺れる。


「来週の昼から、やってもいいか?」


風の音に紛れて、フランシスの声が届く。絵のことらしい。別にいいけど。そう返すと彼はちらりとこちらを見た。その視線がなんだか酷く意味ありげな気がしたが、すぐに彼が前を向いたのでよくわからなかった。おそらく気の所為だったのだろう。


自分たちの側を通り過ぎる風を感じながら視線を前にやると、曲がりくねった路の向こうに、今日最後の光が見えた。風にぱたぱたと靡く真白なシャツからは、やはり絵の具の匂いがした。













COLOURS

















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絵を描いている間画家はモデルに恋をするんだそうですという話を聞いて書きました。ちょっと直接的過ぎたかも。