「待ったか?」
「いや、別に大丈夫だよ」


約束したカフェに向うと、路に面した椅子に座ったアメリカが、いつもの笑顔でフランスを出迎えた。


話があるんだ、とアメリカに呼ばれたのは、イギリスの家を訪れた一週間後だった。もうパリにいるから、君の好きなカフェにでも連れて行ってよ。電話越しの声は明るく、からからと笑う声はまるでいつも通りの彼だった。


アメリカの分のエスプレッソを持ってきたウェイターに、俺も同じの、と頼んだ。ウェイターが金を受け取り、去るのを待ってから、わざわざ悪かったね、とアメリカは言った。彼はのエスプレッソの中に角砂糖を3,4こ入れながら、話をはじめた。ここに来るまでの話だった。


暫く、映画の話や歌手の話が続いた。色々な国の話が出た。日本や、中国や、イタリアや、ドイツ。面白くないロシアのことも。けれども、アメリカとフランスが共通でよくよく知っている、あの彼の話は出なかった。アメリカは、話が彼に及びそうになる前に話題を変えようとしたし、フランスもそれに同調して、ころころと話を変えた。すっきりと晴れた高い空と対照的に、もやもやと核心に及ばない話ばかりが続く。アメリカはきっと、核心に触れる話をしにここに来たのだろうが、フランスはこのまま、とりとめのない話だけで終われば良いのに、と思った。そんなに都合良く物事がすすむわけがないと、わかっていたけれど。


話しはじめてから、一時間は経っただろうか。フランスのところの女優の話をしていたアメリカが、殆ど中身の減っていないエスプレッソをかき混ぜながら、そういえば、とまたも話題を変えた。・・・そういえば。もう一度、彼は繰り返す。その声質が、先ほどまでのそれとは違っていた。アメリカは俯いていた。その、アメリカの目―――瞬間、フランスには、ここからが本題なのだということをさとった。動揺しないように、ゆっくりとした動きで、己のエスプレッソのカップに、口をつける。こんなことがあったらどうする?と、そう、アメリカは切り出した。


「例えば、君に恋人ができたとするね」


その切り出しに、フランスは、とうとうきたな、と思った。嫌な予感がした。いや、これからの話が、気分を害するものになることはもう、目に見えていた。フランスの、他人はおろか、自分ですら直視したくないその感情を、この青年は剥き出しにしてしまおうとしているのだ。見ると、覗き込むようにフランスを見るアメリカの目には表情がなかった。この目をフランスはよく知っていた――イギリスと同じ目だ。


「どうした青年。ついに色気づいたか」


警戒しながら、けれどもフランスはいつものように、さっきまでの話題と同じように、笑って見せた。アメリカは楽しそうに目を細めた。


「まぁ聞いてよ。その恋人には幼馴染がいるとする」
「俺よりずっと長いときをともにすごした幼馴染?」


見透かしたように言葉を紡ぐと、アメリカの目に一瞬、なにか影がよぎったが、すぐに彼はその影を笑みで隠した。


「そう、君よりずっと長いときを恋人と過ごした幼馴染」
「・・・それで?」
「そしたら君はどうする?」


天気のことを話すように、彼は軽い調子で尋ねた。カップを持ち上げる。冷め切ったエスプレッソを舐めて、おう、苦くなったね、とおどけるように眉をひそめた。


「どうするもなにも、・・・どうしようもないだろうが」


再びフランスはエスプレッソを一口飲んで、それからアメリカを見やった。まだ、彼は底の知れない目をしていた。アメリカは暫く思案顔で泡だらけのカップの表面を見詰めていたが、やがて、


「例えばその幼馴染が、それまではずっと気軽に来ていたのに、急に恋人のところに来なくなったとしても?」


思わず目を見開いてしまったが、今のはいきなり付け足された情報に驚いた、ということにしておこう、とフランスは自分に言い訳をした。随分と直球なアメリカの問いかけに、しかしフランスは何食わぬ顔で頷いて肯定を示した。アメリカは、そう、と言ったきり、再び黙って、またもや、今度はフランスの、エスプレッソの表面を見詰めた。先ほどよりも長い沈黙。がやがやとしたカフェの喧騒が、辛うじてふたりの間を持たせていた。次に彼は何を言うだろう。そう簡単に腹を割ってなるものか。――思案にたっぷりの時間をかけた後、ようやく、アメリカが口を開いた。


「・・・恋人が、例えば、――例えばだよ、幼馴染の写真を抱いて泣いていたとしても?」
「・・・なんだって?」



それまでは直接的だったアメリカの言葉が、急に何を言っているのかわからなくなって、それまで落としていた視線をあげると、アメリカは随分と余裕のない顔をしていた。驚いた。彼は何と言ったか?恋人が、幼馴染の写真を抱いて、泣く?イギリスが?訳がわからない。これでアメリカが、あの表情のない目をしてくれていれば、彼がこちらを動揺させたいのだろうとすぐに納得できただろうに、彼は本当に深刻な顔をしていた。これすら演技なのだろうか?それともこれは、なにかを語っているのだろうか?何にしろ、アメリカは、何かに焦っているように見えた。何に焦っているのかがわからない。今の彼は何もかもが順調なはずなのに。


あれだけ覚悟してきたのに、あれだけ、アメリカにさとられないようにしよう、と決めてきたのに、自分の頭が混乱している、ということがフランスにはわかっていた。アメリカはもう、気づいているかもしれない。けれど、気づいてないかもしれない。何にしろ、これ以上のヒントを与えてはいけない。落ち着かなくては。思って、ごめん、聞こえなかった。もう一回言ってくれるか?と、努めて笑顔をつくった。アメリカは急に、自分が何を言ったのかを自覚したように、いや、何でもない、と笑った。急に、話題を変えた。


「・・・君のところは相変わらずとてもきれいだね」
「そりゃありがとう」
「帰りに久しぶりにあの塔に登ろうと思うんだ」
「案内するか?」
「いやいや、それには及ばないよ」


関係のない話をし始めたアメリカを見詰めながら、フランスは自分の中にどうしようもなく不快感が募っていくのを感じた。全く何を勘違いしているのだろう?今となっては、イギリスはまるっきりアメリカのものではないか。誰もがイライラするくらいに――これは別にフランスだけではないはずだ――なんでも、アメリカの言いなりになっている。かつてはあの笑顔を独占して、それ以来ずっとイギリスの目を奪い続け、今や全てを手に入れて。お前はそれ以上、いったい何を望んでるんだよ。フランスは殆ど叫びそうなほど感情的になって、けれどもそれを懸命に抑えて、エスプレッソを口に含んだ。不快感を感じている、ということが不快だった。この感情は、フランスの理性と裏腹に、あれがただの遊びでなかったということを、明確にフランスに突きつけていたから。


「そろそろ行かないと、陽がくれてしまうね。もう行くよ」
「そうか、またいつでも来てくれ。今度は美女でも紹介するよ」
「はは、それは楽しみだな。・・・あ、そういえば、」


自分の分のエスプレッソを飲みきらないまま、席を立ったアメリカが、思い出したというようにフランスを見た。ついで、という体裁とは裏腹に、視線が容赦のない強さを纏ってフランスを射竦めた。それを見た瞬間、やばい、とフランスは思ったが、しかしどうすることもできなかった。アメリカは笑顔だった。


「――終わってから始まる恋ってあると思う?」


やはりアメリカは気づいていたのだ。フランスは思った。あれが、フランスにとって、ただの遊びでなかったことを。アメリカは知っている――疑う、なんてものじゃない。知っている。フランスが未だに自分で認められずにいる、この事実を。


これを自分に言わせるとは、アメリカも随分な男に育ったものだと思った。フランスは認めたくなかったけれど、口に出して否定することはできないと、わかっていた。こうなってしまったら、もう、隠し通せない。嘘をつきとおせない。認めるほか、ない。フランスはアメリカを見たくなくて、目を伏せた。口の中がからからだった。


「・・・お前があると思うなら、」


あるんじゃねぇの。答えた声の弱々しさが、ぼかした答えよりも如実に真実を物語っているようだった。これでアメリカは確信しただろう。ばれてしまっただろう。思った。アメリカは、そうかい、さすがに含蓄があるね、と言った。声が少し、硬質だった。その顔をフランスは、見ることができなかった。


アメリカはにこりとどこか寂しそうに笑って、それからひとつ手を振って、エッフェル塔とは逆の方向へと向って歩いていった。そっちじゃないぞ。フランスは言おうとしかけて、――結局口をつぐんだ。エッフェル塔なんてどこからでも見られるだろうから、どこかで気づくだろう。再びエスプレッソのカップに口をつける。認めてしまった。フランスにとって、あれが遊びでなかった、ということを。もう、取り返しがつかないのだと、思った。もう、逃げられないのだと思った。苦々しいエスプレッソの後味を噛み締めながら、フランスは賑やかなカフェの席でひとり、うなだれた。









はじまりのおわり