正直、全く気が進まなかった。彼に会うのにこんなにも腰が重いのは、かなり久し振りだろう。しかし、会わなければならない用事ができてしまい、そうなればだれであろうと会わなければならないのが、仕事というやつだった。フランスは自分の中の憂鬱を持て余しながらのびのびにしていた彼の家への訪問を、今日――空が美しく晴れ渡っている――やっと、する気になったのだった。 イギリスの家へと到着する。今日はイギリスの家のあたりも珍しくはれていて、庭の緑がとてもきれいだった。フランスは緑という色で、思い出しそうになったものを、自分の胸に押し込んだ。さっさと会って、用事を済ませて、とっとと帰ろう。そう言い聞かせて、フランスはドアへと歩み寄った。 呼び鈴を鳴らしても、彼はでてこなかった。おかしい。普段の彼ならとっくのとうに起きている時間なのに。具合でも悪いのかと、フランスはそのドアに手を伸ばした。それは抵抗なく開いた。 「・・・?」 驚いた。物騒にも程がある。おーい、入るぞ?なるだけいつも通りの声を出して、中へと入る。もう何十年も変わっていない玄関へと歩みを進めた。以前ならばここで彼が勝手に入るな!と叫びながら現われるはずだったが、しかし今日は出てこない。違和感を感じながら、同時に、嫌な予感をフランスは感じていた。 どの部屋を探しても、彼はいなかった。最後に残ったのは寝室。さすがに少し逡巡したが、しかし以前なら何も考えずにドアを開けていたことを思い出して、フランスは寝室のドアを開けた。そうだ、何も変わらなかったかのように振舞おうと、決めていたのだから。 ベッドが見えた。そこに人がいるのも。幸い、ひとりのようだ。最悪の事態だけは免れたことがわかって、ひとまず安心した。瞬間、布団の中のからだが動いた。 フランスは、よお、まだ寝てんのか?と、またいつも通りの声を出す。同時に中へと入る。その足が、止まった。 「…アメ、リ…カ…?」 ベッドの中のイギリスが、かすれた声で呼んだ相手は。 「……残念だったな、愛しい弟君じゃなくて…いや、今は恋人か?」 気づけば、自分でも驚くほどに酷薄な声が出ていた。それを聞いたイギリスは、目を見開いて、息を飲んだ。身体を起こして――その最中、彼は顔を痛みにゆがめた――、フランスから離れるように、威嚇するように、その身を動かした。いい訳するように胸の辺りにやった掛布。けれど裸の鎖骨の下につけられた赤い所有の印を、それは隠せていない。 「ふらんす…」 少し擦れた声で名を呼んだ彼の緑が、一瞬絶望に似たもので満たされたが、しかしそれはあっという間に、お得意のポーカーフェイスで隠されたから、たぶん見間違いだったのだろう、とフランスは思った。彼はフランスに向かって、勝手に入ってくるんじゃねぇよ、と低く言う。なんで?フランスは何も知らないかのように笑って見せた。 「前だってそうしてたのになんで急に変えなくちゃなんねーんだ?」 イギリスの眸の光が強くなる。昔からそう言ってただろうが、と言った声は更にきつく、フランスに近づくことを許さない力を持っていた。それでもフランスは、その眸をじっと見詰めて、くちびるに笑みを乗せた。 「・・・お熱い夜だったようで」 下卑た一言に、イギリスの頬に赤色がさっと上る。しかしすぐに彼は、開き直ったように笑みを浮かべて、フランスを見た。 「まぁ、な」 なかなか疲れる外交だ、と言った彼に、腰たたねぇんじゃねぇの、と嘲笑すると、再び鋭く睨まれる。フランスは鼻先で笑った。なんだかとても、おかしな気分だった。もともと知っていたことをこの目で確認しただけだったのに、聞きなれた擦れた声も、肩に残った赤い痕も、ぐったりとしたしどけない肢体も、全てフランスとは全く関係のないものなのだ、ということが信じられなかった。ついこの間まで、彼が目覚める瞬間の目の輝きを独り占めし、さわさわと心地好い感触の金髪を指に絡め、その額にキスしていたのは自分だったのに――しかし、いまや触れることはおろか、寝室に入るのすら逡巡を伴うものになってしまった。 (――って、何考えてんだ俺) そこまで考えて、そんな風に考えている自分がおかしく感じられてくる。こいつがどうしようが俺には関係ないじゃないか。自分に言い聞かせながらなんとなく視線をやると、イギリスは、ベッドの横に落ちているシャツを拾い上げているところだった。露になった真っ白いくびすじに残る、無数の痕。首なんて、俺のときは許してくれなかったくせに。やっぱり遊びと本命は違うのか――またも比較をしている自分が、フランスはいやになった。馬鹿な考えを追いやるようについたため息はやるせなさの塊のようで、そんなため息をついているのが、また嫌だった。 「・・・さっさと着替えろよ。今何時だと思ってんだ?」 「――直ぐ行くから向こうの部屋で待っててくれ」 イギリスは視線を合わせずに、早口でそう言った。少し震えていたその声をいぶかしんでイギリスを凝視すると、はやく行けよ!という酷く擦れた叫び声と枕が飛んできた。受け止めた枕からは、イギリスのものでない匂い。その事実がフランスに与えた衝撃は、信じられないほどに大きかった。いつのまにか、嘲笑するような――それがイギリスに向かってなのか、自分に向かってなのかすらわからなかった――声を、フランスは出していた。 「…この枕、アメリカの匂いがするな」 「っうるせぇ早く行けよ!」 投げかけられた怒声は、何故か涙混じりだった。睨みつける双眸はまるで傷ついたような色で、なぜそんな表情をしているのかがフランスにはわからなかった。先に決着つけたのはそっちなのに、ばかじゃねぇの、泣きたいのはこっちだよ。フランスは胸の中で呟いて、早足で寝室を出る。枕はイギリスに投げつけておいた。大きな音を立てて、乱暴にドアを閉める。なぜこんなにもむしゃくしゃしているのか――その答えをフランスは知っていた。そうだ、知っているのだ。この感情は。この感情の名は。 |