だいたい天気予報というものは、当たって欲しいときは外れるくせに、外れてほしいときに限ってドンピシャで当たるものだ。今日も例にたがわずそうだった。『本日の降水確率は午後から80パーセントです、みなさん傘をお持ちになって出掛けましょう』、そう言って爽やかに笑ったお天気のお姉さんの言葉どおり、その日、生徒会の活動を終えたときには、外では降水確率80パーセントの予報に恥じない大雨が降っていた。 『傘を忘れたから帰りに入れてくれ』。困り果てたアーサーが仕事の最中、積み上げられた書類の間からそんな主旨の言葉を伝えたとき、(それまで珍しく真面目に書類に目を通していた)フランシスは目をぱちくりとさせてこちらを見つめた。アーサーの頼みごとというめったに起きないイベントの発生に驚いているのが手にとるようにわかって、忌々しくなると同時にちょっと恥ずかしくなる。しかしその驚きは、すぐに『めったに起こらない面白いこと』に対する興味に変換された。どうしたんだよ、アーサーが俺に頼みごとなんて。明日も雨か?によによという、アーサーからすれば相当に気持ち悪い笑いを浮かべながら、彼は言った。うるせぇな、忘れたんだから仕方ねぇだろ。いやいや、お姉さん今日は午後から80パーセントだって言ってたじゃん、なんで持ってこないんだよ。朝家をでるときは持ってたけど玄関先で靴ひもを結ぶのに置いたらそのままわすれちまったんだよ。うわっだっせー!んだとこの髭! そんな会話がなされたのは、つい先程のことだ。そのときアーサーは、ちょっと言い過ぎたかもしれないと思い、ずぶ濡れで帰る覚悟までしたのだが、いざふたり並んで昇降口に立つと、彼はなんでもないことのようにアーサーを傘に入れてくれた。勿論、『あーこれかなり狭いよ誰かさんのせいでさぁ』という憎まれ口は忘れなかったが(そして勿論、アーサーはその言葉に報復した)。 かくして、こんな大雨の中を、大の男ふたりがひとつの傘に収まって歩いている、というシュールとしか言い用がない光景ができあがったのだった。誰かに見られてたらまじ死ねる。こんな髭と相合い傘なんて。アーサーは入れてもらっているという立場も忘れてそう思う。しかも、普段は一緒に帰るにしてもすたすた歩いてはいさようなら、なのに対し、今日は濡れないためにいつもより歩き方がゆっくりしたものになるから、この髭とひとつの傘という密室の中にいる間も長くなってしまうのだ。勘弁してほしい。 「すごいな雨」 「ああ」 「こんな風になるってわかってんのになんで傘忘れるのかねぇ、どっかの会長さんはさ」 「てめぇしつけぇよ、忘れたもんは忘れたんだから仕方ねぇだろ」 「あーあ、俺、この傘には美女しか入れないってきめてたのに、第一号がお前とかまじ泣けて来るわ」 「そんな日永遠に訪れねぇくせによく言うな」 軽口を叩きあいながら、もぞもぞと進む。通学路には車も通らず、雨の音以外はやけに静かだ。雨の湿った匂いと、いつもより近い香水の匂いが、アーサーを不思議な気分にさせた。考えてみれば、いくら彼と日頃から共にいる機会がそれなりに多いにしても、こんなにも接近する状況というのは初めてだった。ちらりと視線を動かして見れば、すぐまぢかに彼の顔がある。まばたきに揺れるやたらめったら長い睫をほとんど無意識のうちに見詰めながら、こいつ、こんなに睫長かったっけ、とアーサーは思い。しかしすぐに、いやだからどうだって言うんだよ、と思い直す。別にこの髭がどんな顔をしていようがどうだって良いはずだ。アーサーはこの状況と自分の心理についてこれ以上深く考えないために、適当な話題をフランシスに振った。フランシスはアーサーのそんな戸惑いに気づいているのやらいないのやら、その話題にいつもどおりの嫌味っぽい返事をしてきた。 ふたりは馬鹿な話をつらつらとしながらもぞもぞと歩き続けた。終わらない仕事への愚痴が大半だった。あとはフランシスの馬鹿な友人の話とか、アルフレッドの今朝の遅刻についてとか。ふと会話が途切れ、傘の中に沈黙がおりる。絶え間ない雨の音がやけに大きい。今更沈黙が苦になるような仲ではないはずなのに、この傘の中の空気がなんだかいつもと違うものに思えるのは何故だろう。妙な居心地の悪さを覚えながらアーサーはふと正面をみて、―――そこではじめて、いつの間にやら自分たちが、既にいつも別れる交差点を通り過ぎて、アーサーの家に向っていることに気づいた。 一応弁解をすると、アーサーは「傘に入れろ」とは言ったが、家まで送ってもらうつもりなんて一寸も持ち合わせてはいなかった。いつも別れる交差点から家まではそう遠くないから、そこからは濡れていくつもりだったのだ。なのに、その交差点でフランシスがあまりにも何事もないかのように通りを右に(つまりアーサーの家の方に)曲がったものだから、アーサーはそこを通り過ぎたということに気付かなかった。しまった、してやられた。アーサーは思った。フランシスの馬鹿馬鹿しい話に付き合っている間に、『ここで良い』と言うタイミングを完全に失った。いや、正確には失わさせられたのだ、フランシスによって。そうだった、この髭野郎、へらへら笑っているように見えて、こういうことをあくまでも自然にやり遂げてしまう奴なのだ。 忌々しい、こんな野郎にいいように扱われるなんて。そう思う間にも、アーサーの家は着々と近付いて来て、ついにその前まで来てしまう。アーサーはまるでデート帰りのお嬢様よろしく、完全にフランシスに送られたことになってしまった。 「じゃあな」 アーサーが屋根の下に入ったのを確認したフランシスは、この次は忘れんなよ、とだけ言って、それ以上何も言わずに自分の家へと向かって元きた道を歩き出す。深い青色の傘と、傘からはみ出ていたのだろうずぶ濡れの腕、濡れた金髪が少しずつ遠ざかる。それを見送りながら、胸糞悪ぃ、とアーサーは思った。こんな奴に傘にいれてもらった上に、家までわざわざ遠回りをしてまで送ってもらい、それで何の見返りもなしだなんて。こいつ相手に貸しなんて、死んだってごめんだ。アーサーとフランシスはいつだって対等でなければいけないのに。 アーサーは思わず自分の家の玄関から、道路へと飛び出していた。フランシスの背中は随分と遠く、もうすぐいつも別れる交差点にさしかかるところだった。アーサーはその傘に向かって、叫んだ。 「おい、お前!」 十数メートル先を歩いていたフランシスが振り返った。 「新しい紅茶を買ったから、飲んでいけ!」 ついでに、身体をふいて行けよ。たとえば本田に対してなら言えたかもしれなかった優しげな一言を、アーサーはフランシスに対してついに口にはできなかった。かわりに、「別にお前のためじゃなくて、俺が飲みたいだけだけどな」といつも通りの一言を付け足す。フランシスが一瞬きょとんとして、しかしすぐに、ふっと笑ったのが、遠いのにもかかわらずわかった。彼が再びアーサーの家へと歩き出す。アーサーの心理など全てわかっているといった風の彼の様子に、なんだかうまく手の平の上で踊らされているような気がしたが、今回だけは気付かないふりをすることにした。こうなったら、とびっきりの紅茶をいれて、貸しを返しきってやろう。アーサーは思いながら、取り敢えずはタオルを用意するために、自分の家へと入っていった。 ******* ぶつぶついいながらもアーサーを助けてくれる兄さんと、ぶつぶついいながらも感謝してるアーサーが書きたかったんだと思います。 うーん冗長になってしまった。 |